パワーフォワードの選手として活躍るジョシュ・ホーキンソン選手のメンタルの事例
メンタルとは?
- 学生時代に残した”快挙の記録”
- ”怪我がきっかけ”でバスケットボール選手へ
- ”日本行きをポジティブ”に捉えたこと
学生時代に残した”快挙の記録”
アメリカのワシントン州シアトル出身のジョシュ・ホーキンソン選手。ノルウェー出身の父とデンマーク出身の母の元に生まれました。両親ともに元プロバスケット選手で父はバスケットの大会や旅行を企画し、運営する会社を経営しています。
アメリカ代表団の副団長そして女子バスケットボールチームのコーチも務めた指導者としての経験もあります。ホーキンソン選手の母親も素晴らしい技術を持つ選手でした。現役時代につけていた背番号は24。そんな思い入れのあるこの背番号をジョシュ・ホーキンソン選手も幼い頃から今に至るまで背中に背負っているのです。
両親の影響を受けたジョシュ・ホーキンソン選手も小学校に入学した6歳の時にバスケットボールを始めました。バスケットボールと共に高校まで野球もプレーしていたマルチな才能のアスリートでした。ピッチャーとして150キロ近いボールを投げることができ、天性の才能で大活躍していました。
高校からバスケットボール一本に絞り、ワシントン州ショアラインにあるショアウッド高校に進学。メジャーリーガーのブレイク・スネル選手やサッカー選手のジョージ・ジョン選手などの有名アスリートも多く輩出した名門校です。
高校時代、1試合につき平均20得点・10リバウンド・5ブロックという成績を残したジョシュ・ホーキンソン選手。卒業後は、ワシントン州プルマンにあるワシントン州立大学に進学しました。
こちらの学校もNBA選手やメジャーリーガーを含む多くのアスリートを輩出している名門校。1年目は、先輩のバックアップとして与えられたプレー時間がわずかなものでした。しかし2年目から出場機会が徐々に増えるとチームの主力選手として活躍します。
大学時代に1414得点、1015リバウンドという記録を残しました。ワシントン州立大学の選手として初となる在学中1000得点そして1000リバウンド以上の快挙を達成したのです。
”怪我がきっかけ”でバスケットボール選手へ
大学時代に大学卒業資格である博士号と大学院卒業資格である修士号も取得し、文武両道を貫いたジョシュ・ホーキンソン選手。少年時代は、秋にサッカー、冬にバスケットボールそして春に野球をプレーするという”3刀流プレーヤー”でした。
その中でも高校時代、一番才能があったのは野球だったそうです。208センチの身長から155キロの球を投げる投手として将来も有望視されていました。しかしある時、利き手である右手での生活ができないほどの大きな怪我を負いました。
トミー・ジョン手術などの医療技術が進んでも将来的に野球を続けていくことに対して不安を拭いきれませんでした。そんな時に出場したバスケットボールの試合で全てのフリースローシュートに成功。そしてバスケットボールを選ぶ大きな決め手となったのが”毎日プレーしたい”という彼の性格でした。
投手としてプロに入ると投げるのは、4から5日に一度ほどで投手として休養は必須なものです。しかし彼にとっては”退屈”でしかなかったのです。怪我で抱えた大きな不安により大きな挫折を味わったジョシュ・ホーキンソン選手。恵まれた身体能力に挫折から得た強いメンタルが加わりました。大学時代に1414得点1015リバウンドという記録を残し、NBAでパシフィック12カンファレンスのスカラー・アスリート・オブ・ザ・イヤーという文武両道の年間最優秀選手賞にも輝いたのです。
”日本行きをポジティブ”に捉えたこと
バスケット最高峰であるNBAからのオファーを得ることができなかったジョシュ・ホーキンソン選手。怪我がきっかけとなり野球からバスケットボール1本に絞って活躍してきた彼にとって再度味わうことになった大きな挫折でした。
それほど狭き門なので同じようにNBAからオファーを得られなかった選手がたくさんいました。そのほとんどの選手は、NBAの下部組織やヨーロッパなどの強豪チームへと加入しました。
しかしジョシュ・ホーキンソン選手が選んだのは、日本バスケットボール界Bリーグでした。きっかけは「日本では、大きくて技術がある選手が好まれる」と耳にしたこと。そしてもう一つ、日本へ興味を持った理由があります。
シアトル出身のジョシュ・ホーキンソン選手は、地元シアトル・マリナーズの大ファンでした。長くこのチームで活躍したイチロー選手は、地元のヒーローでした。イチロー選手の引退試合も現地で観戦していたというほど大きな存在でした。
もちろんそれだけで異国の地である日本へ来ることは、とても勇気が必要な決断です。しかしオファーを受けたファイティングイーグルス名古屋への加入が決まったことをポジティブに捉え、来日を決意しました。
最初の数ヶ月は、日本に馴染めずホームシックになったこともあったと言います。心配した父は、気分転換のためにジョシュ・ホーキンソン選手をゴルフの打ちっぱなしに連れ出しました。「なにをしても良いから週に2度は外出するべきだ」とアドバイスし、名古屋城にも出掛けたそうです。
すると徐々に心が解きほぐされ「孤独感に襲われながらもたくさんの方に助けられ、支えられ文化にたくさん触れていくうちに日本のことが大好きになった」と話したジョシュ・ホーキンソン選手。そして「いつしか助けてくれた人に恩返しがしたい」と心から感じ始めたと言います。そして、日本代表選手としてプレーすることを強く望むようになっていきました。
しかし帰化申請をするためには、たくさんの日本語を覚える必要がありました。それでも彼の本気度は、日本人よりも日本語も流暢に話せるほどになったことで強く伝わります。日本の文化にも慣れ親しみ、温泉に入ることも趣味の一つになりました。
帰化した時に決めた日本名は、鷹大(たかひろ)。ホーキンソンのホーク=鷹からとってつけました。さらに日本通だと感じる点は、鷹という漢字の画数が24なこと。24という数字は、母が大学時代につけていた背番号でジョシュ・ホーキンソン選手自身も幼少期からこの背番号をつけ、日本代表でもこの背番号をつけているほど思い入れのある大切な数字なのです。
”たかちゃん”の愛称で親しまれ、日本国籍を取得したことで”外国籍選手”から”帰化選手”へと変わったジョシュ・ホーキンソン選手。日本代表チームに招集されるとW杯アジア2次予選イラン戦で飾った日本代表デビュー。サン・ロッカーズ渋谷に移籍し、日本代表としてワールドカップへ出場しました。そしてついには、オリンピック出場への切符まで掴んだのです。
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