スポーツチームが優勝できる組織の作り方とは?|原晋監督の事例
チームを優勝に導くためには?
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駅伝選手から”伝説の営業マン”へ
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監督就任から”箱根駅伝4連覇”まで
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1期生と共に築いた”優勝への仕組み”
駅伝選手から”伝説の営業”マンへ
瀬戸内海の昔ながらの小さな港町、広島県三原市出身の原晋監督。小学校2年生の時に足を複雑骨折、長期の入院が必要なほど大きな怪我でした。退院後は怪我のリハビリも兼ねて町内でジョギングを始めた原晋監督。雨の日も休まず走っていたそうで「自分で決めたことはやり通す、意志の強い少年だった」と話しています。
そんな原晋監督は、ソフトボールでは4番でピッチャー、相撲でも主将を務めるほど幅広いスポーツをこなせるほど運動神経が抜群でした。中学入学時に野球部か悩んだそうですが、幼稚園からの幼馴染に勧められたことで陸上部に入部し長距離を始めました。リハビリで毎日ジョギングとしていた頃の原晋監督を見ていたからなのでしょう。
まだ1年生ながら校内マラソンでは上級生に競り勝ち1位、中学3年生で出場した県の総体では1,500mで2位の成績を残しました。高校は、駅伝の強豪校である広島県立世羅高等学校に進学。3年生の時に出場した全国高等学校駅伝大会では、主将として総合2位に貢献しました。大学は、高校のOBが監督を務めていた中京大学に進学。2年生で出場した全日本大学駅伝では、1区14位そして3年生で出場した際には4区9位。3年生で出場した日本インカレでは、5,000mで3位の記録を残しました。
卒業後は、中国電力に入社し、陸上競技部の創設に参加した原晋監督。主将を務め、全日本実業団駅伝の初出場に貢献しました。しかし故障が原因で入社5年目、27歳の若さで選手生活から引退を決意。引退後は10年間、中国電力で電気の検針や料金の集金などの業務でサラリーマンとして勤務しました。
営業所に配属された原晋監督は、約1,000万円する企業用の蓄熱式空調システム『エコアイス』で社内一の売上を記録したことで”伝説の営業マン”と呼ばれました。その後立ち上げた新規事業では、当初5人だった部署が120人までの大事業にまで成長。ビジネスマンとして大成功を果たしたのです。
監督就任から”箱根駅伝4連覇”まで
「うちの母校が駅伝を強化しようとしているのですが、監督をしてみませんか?」と世羅高校の後輩からオファーを受けた原晋監督。現役引退後、サラリーマンとして勤務していた10年間は、TVで陸上を見ることもなく監督やコーチなどの関係者とも連絡を取らず一切関わりを持っていなかったそうです。
監督就任の条件として”大学嘱託職員として期間3年間で現在の収入保証”と提示されたにも関わらず「出向及び休職しての指導は中国電力と青山学院大学との関係がないから無理。3年間で結果を出したら3年分の身分保証をして欲しい。ただ結果が出ない場合その必要もない」と自ら退路を断った原晋監督。
事前に妻にも相談なく「中国電力を退職し青山学院陸上部監督になった。箱根駅伝で必ず優勝させて見せるから夫婦で東京の寮に住み込もう」と話したそうです。決意が固く自信もあったのでしょう。しかし、監督就任間もない頃はスカウトに出向いても「大学は素晴らしいけど駅伝は箱根には出ていない」と実績がないことで選手に断られ、選手集めから苦労したのでした。
自身の母校である世羅高等学校、中京大高校から何とか継続的に選手を入部されることができました。「就任3年で箱根駅伝に出場、5年でシード権、10年で優勝争い」と宣言したものの3年目の箱根駅伝予選会で16位だったことで大学幹部から責められ、廃部寸前のピンチを迎えたこともありました。
しかし就任5年目で監督を務めた学生選抜連合のチームを総合4位にしたことを起点に、就任6年目で青山学院大学を史上最大のブランクとなる33年ぶりに箱根駅伝出場へ導き、22位。翌年8位に躍進し41年ぶりのシード権も獲得。就任12年目、ついに青山学院大学を箱根駅伝で初の総合優勝に導きました。翌年も2年連続で優勝すると、選手たちと共に当時内閣総理大臣を務めていた安倍晋三氏より表敬を受けました。在学選手がオリンピック選手の候補に挙がりました。
箱根駅伝3連覇、”大学駅伝三冠”をも達成。史上6校目となる箱根駅伝4連覇を達成した原晋監督は、パレードで「メディアに出ることを色々いう人がいたが、やはり間違えていなかった」と笑顔で話しました。きっと心無い誹謗中傷を受けながらも自身の信じるものそして選手たちとの絆を信じ進み続けてきたのでしょう。メディアに出ることで選手や自身を鼓舞し、たくさんの人に勇気を与えたのです。
多くのメディアなどで注目されたのは、ただ快挙を成し遂げただけではなく選手そして監督としての原晋監督の経験や人生そのものが魅力的だからなのです。
1期生と共に築いた”優勝への仕組み作り”
監督就任時、まず最初に”組織づくり”を始めた原晋監督。”より良い組織がより良い人材を育てる”という持論によるものでした。スポーツだと良い選手をビジネスだと優秀な人材をどれだけ沢山採用しても組織そのものがダメならば、花開くことはないのだそうです。そのため個々の能力を伸ばすには、まず良い組織作りをしなければならないと考えます。
作るべき組織は、”個人に依存するのではなく、全体で考える組織”。チームとして挑戦し、戦うことをキーワードに組織作りの基礎として必要な”ルール”を作り始めました。就任直後、初めて入学した選手たちと最初のミーティングで”この4年で箱根駅伝に出れるか正直約束はできない。
しかし10年後には必ずこのチームを優勝させる。そのためにこれからの陸上部の礎となるルールを一緒に作って欲しい”と話した原晋監督。そして”優勝した暁には、必ず君たちを賞賛する”と約束したのでした。1期生の選手たちと青山学院大学陸上部のルールを作り、試行錯誤し年月を重ねました。そして5年後33年ぶりに掴んだ箱根駅伝出場。翌年以降はシード権を掴み続け、就任から11年後に念願の初優勝を果たしました。
優勝報告会の場で「今回優勝できたのは、現役選手たちだけではなく、1期生が私と共にルール作りに取り組んでくれたおかげ」と最初の選手たちを褒め称えることができたのでした。1期生を箱根駅伝に出場させてあげられなかったという悔しい思いが今でも強く残っているそうです。その積年の思いが強い分、在校生を優勝させてあげたい思いが強かったのでしょう。
その後、青山学院大学は、4年連続箱根駅伝で優勝。史上6校目となる4連覇を達成したのでした。原晋監督が1期生の選手たちと仕組みづくりのために作ったルールというのは、”規則正しい生活をすること”でした。陸上、特に長距離選手においては、どれだけ良いトレーニングをしても夜ふかしや食生活の乱れがあるとパフォーマンスが上がらないと考えたのです。
そのため『早寝早起き』『しっかり練習をする』『食事もしっかり摂る』と定めました。当たり前のことに感じますが、18?22歳という若者にこの規則正しい生活を定着させるには随分と時間がかかったそうです。そしてこのルールの大前提として青山学院大学陸上部の3つの行動指針も定めました。
まず一つ目『感動を人からもらうのではなく、感動を与えることのできる人間になろう』二つ目『今日のことは今日やろう。明日はまた、明日やるべきことがある』三つ目『人間の能力に大きな差はない。あるとすればそれは熱意の差だ』でした。組織づくりに最も重要なものは三つ目です。個人も組織も能力だけではなく、熱意が兼ね備わってないと成長できないと考えたのです。そして、いくら能力と熱意があっても正しい方向に向かっていないと個人も組織も成長しないと感じ、最近では”方向性”も重要だと話す原晋監督。
”箱根駅伝で優勝に導いた人”としてスポットが当たりますが、自身も選手としても活躍し伝説の営業マンとして手腕を振るってきた人なのです。数々の経験の中で独自のルールを作ってきたであろう原晋監督。元々考えることや仕組みを作るのが得意な人だったのでしょう。
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【このコラムの著者】