”世界最高峰での険しい道”で得たスキルとメンタル、石川祐希選手
世界最高峰のリーグ、イタリアセリエAのミラノに所属する石川祐希選手。18歳で日本代表デビューを果たし、2019年のW杯では日本男子を28年ぶりとなる4位入賞へと導いた日本のエースです。192センチの石川祐希選手の最高到達点は脅威の353センチ、凄まじいジャンプ力の持ち主で日本男子バレーボール界の宝とも言える存在。今回は、石川祐希選手についてお話します。

目次
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受け継いだ”アスリート夫婦のDNA”
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”チームメイトのMVP”がプロへのキッカケ
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”勝利”を求めるなかで身についたもの
受け継いだ”アスリート夫婦のDNA”
愛知県岡崎市出身の石川祐希選手。父はDENSOに実業団でDENSOに所属していた元陸上選手で母も同じく実業団でDENSOに所属していたバスケットボール選手でした。二人の身長も父183センチと母165センチで一般人よりも長身です。妹も東レアローズに所属し、日本代表にも選ばれた石川真佑選手。両親のアスリートDNAが石川祐希選手と妹の真佑選手にも引き継がれています。
そんな石川祐希選手がバレーボールを始めたのは、小学校4年生の時。1歳年上の姉がバレーボールをしていた影響でした。すぐにベンチ入りを果たし、初試合でスパイクを決めたそうです。この野球チームが全国大会を目指すほどレベルが高いチームだったこともあり、バレーボールに面白みを感じ夢中になっていった石川祐希選手。
中学時代には全国大会で準優勝、全日本中学バレーボール選手権大会、全国都道府県対抗中学バレーボール大会で優秀選手に選ばれ、愛知県選抜ではレギュラー、そしてキャプテンを務めました。入学時には160センチほどだった身長は、中学3年生になると180センチを超えるまでに成長。バレーの強豪校である星城高等学校に進学しても尚その勢いは止まらず、3年連続でインターハイの優秀選手、全日本ユースにも選ばれ、アジアユース男子バレーボール選手権でベストスコアラーに輝くなど2年連続で高校3冠を達成します。
数えきれないほどのタイトルを高校3年間で獲得した石川祐希選手。高校2年から3年の2年間で公式戦99連勝という記録まで保持しています。高校の監督からも「視野が広く、バレーへの向上心がストイックだった」と賞賛されています。卒業後は中央大学に進学。すぐにスタメンとして出場し、新人賞、会長特別賞、サーブ賞などを受賞します。
全日本バレーボール大学男子選手権大会を3連覇、4年生の時にはキャプテンも務めました。大学入学と共に全日本代表候補入りも果たし、東京オリンピックに向けた強化指定選手である”Team CORE”のメンバーに選ばれた石川祐希選手。アジア大会に出場し、シニア代表デビューを果たすとイタリアのセリエAのパッラヴォーロ・モデナから契約期間1年でオファーを受けます。
大学1年生にして世界最高峰のイタリアのセリエAのチームに3ヶ月間留学。大学3年生の時にもイタリアのセリエA1のトップバレー(ラティーナ)へ3ヶ月間短期留学しました。大学卒業後は日本バレーボールのセミプロVリーグには所属せず、プロのバレーボール選手となりました。学生時代に留学したことで「世界で戦う必要性を確認した」と話し、現在も学生時代と同様にバレーに対する向上心はストイックなままなのです。
”チームメイトのMVP”がプロへのキッカケ
18歳で代表入りし、エースとして日本をW杯4位に導いた石川祐希選手。バレーボール世界最高峰イタリアのセリエAで日本人初となる通算100試合出場、通算1000得点を記録するなど世界のトップレベルで活躍する若き天才は、メンタルもまた凄まじいものです。彼の根底にあるのは、”勝ちたい”という思いや”トップチームでプレーしたい”という至ってシンプルなもの。しかしこの思いが、世界最高峰のリーグで戦い続ける原動力となっています。
この場所で勝負するために大学卒業後は、”Vリーグ(日本のチーム)ではなく海外のリーグ(プロになる)でプレーする”という決意をした石川祐希選手。それまでの日本バレーボール界では異例となるものでした。この異例の決意のきっかけとなったのは、初めてイタリアでプレーした大学1年の時。
コパ・イタリアにてモデナのチームメイトがMVPを受賞したことでした。”いずれは自分も”と世界最高峰でのMVPを取りたいと強く願ったのです。それまで大学卒業後は、企業に入ってバレーボールを続けようと考えていたそうです。しかし大学時代に海外へ挑戦したことがキッカケとなり、”活躍しなければ次がないプロの世界”でプレーしたいと”勝ちへの貪欲さ”が湧いてきました。
自分の納得が行くプレーをして良さを存分に発揮できなければ、来季のオファーは来ないという厳しい世界での挑戦。良い意味でのプレッシャーを感じ、強くなれると感じたのです。日本で企業に就職してプレー、または企業に籍を残したまま”レンタル移籍”という選択肢もありました。それでもプロになったことで気持ちの面で大きな転機となったのです。
チームの結果はもちろん、自分のパフォーマンスによって評価され判断されるというプロの世界での挑戦を選んだことで”自分を成長させたい”という思いや覚悟が芽生えたのです。
”勝利”を求めるなかで身についたもの
厳しい環境をあえて選んだのは「自分の目指すゴールが明確でないとその環境に流されてしまうから」と話した石川祐希選手。”世界のトッププレーヤーになること”が石川祐希選手にとってのゴール。このゴールまでの道のりで”今の自分がどの位置にいるのか”をしっかりと把握することで正しい選択ができると考えています。「イタリアでプレーするなかで自分の強み、世界のトップ選手と比べて長けている部分、足りていない部分をそれぞれ見つけることができた」と話す石川祐希選手。
それでも1年後には”成長を求めて”また「あえて厳しい環境に身を置くという選択をしているかもしれない」とも話し、ストイックな姿勢を崩しません。自分より優れた選手が多いなかで生き残っていくには、自分を強く持たなければいけないという思いこそが、メンタルを強固なものにしました。
勝利を求めるなかで身に付いたスキルやメンタルこそ、イタリアでプロに挑戦した石川祐希選手にとって何よりの財産となりました。”バレーボールを楽しめている”ことがメンタルが安定している証。さらにチームメイトとのコミュニケーションを取るためにイタリア語を習得。チームメイトが要求するもの、自身のこうしたいという意志を伝えることができたそうです。”全ての経験は必ず次の挑戦の武器になる”そう信じているのです。
今回は、石川祐希選手についてお話しました。怪我で体が動かせない時以外は、常にバレーボールと向き合ってきたストイックさはアスリートの両親からDNAと共に受け継いだものです。才能にあぐらをかくことなく、自信を持てるようになるまで練習し前へ進んできました。日々鍛錬を積み重ねていくことでメンタルを養ってきました。
バレーボールに対する”あくなき向上心”と”勝ちたい”という強い思いによってどんな壁も乗り越えてきたのです。今後も世界最高峰の舞台で数多くの記録を更新されること、石川祐希選手のこれからの活躍が楽しみです!
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【このコラムの著者】