難病を乗り越えたメンタル、”氷上のシンデレラ”三原舞依選手
『何度も逆境を乗り越えたシンデレラガール』というキャッチコピーのフィギュアスケート三原舞依選手。ジャンプやスピンなどで瞬発力やスキルを必要とし、曲に合わせて滑り切るために持久力も兼ね揃えていなければならない非常にハードな競技です。
しかし彼女の前に立ちはだかったのは、もっと深刻で大きな壁。16歳未満の子供のうち1万人に1人の確率で存在するという遺伝性ではない原因不明の病でした。”若年性特発性関節炎(若年性リウマチ)”という名の難病。
この病のなかでも”小関節型”と言われるタイプで両膝の激痛が現れます。進行によっては、関節が破壊され一般人でも厄介な病。滑るために膝の関節を使用するフィギュアスケーターにとっては、特に大病だったのです。今回は、三原舞依選手についてお話します。

目次
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三原舞依選手が患った”若年性特発性関節炎”
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美しい強さを象徴する”シンデレラ”
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闘病人生を表現した”戦場のメリークリスマス”
三原舞依選手が患った”若年性特発性関節炎”
兵庫県神戸市出身の三原舞依選手。テレビで見た浅田真央選手に憧れ小学校2年生の時にスケートを始めました。安定したジャンプの直表が最大の武器で”ノーミスの天使”とも称され、5種類のトリプルジャンプを跳ぶことができ、ステップとスピンでも全てレベル4を獲得することもできる選手へと成長しました。
しかし決して順風満帆なスケート人生を送ってきたわけではありません。16歳になる年、全日本選手権を1週間前に控えた練習中に膝が痛くなりました。日々酷使しているため「怪我かな?」とテーピングを施し、全日本ジュニア、ジュニアGPファイナルに出場。それぞれ8位、6位と納得できる結果ではないものの痛みを堪え必死に滑り切りました。
大会を終えた帰国後、病院で受けた診断結果は”若年性特発性関節炎”。さまざまな病型に分かれますが、関節炎や2週間以上の発熱、皮膚の発疹や全身に渡るリンパ節の腫れ、肝臓や脾臓の腫れなどが症状として現れます。
三原舞依選手は、”小関節型”と言われるタイプで主な症状が両膝の激痛でフィギュアスケーターとして特に深刻なもの。すぐに入院した三原舞依選手は、出場を断念した全日本選手を病室のテレビで見ていました。「来年この場所に戻ることはできるのかな」と不安に感じたそうです。
しかし「笑顔にしてたら気分が晴れるかな。絶対に(全日本に)戻りたい」という強い思いもあり、その不安に押し潰されることはなかったと言います。ポジティブで強靭なメンタルを持つ三原舞依選手。痛みを堪えて出場したジュニアGPファイナルでは、膝に水が溜まっていて足が曲がってしまうほどの状態だったそうです。
演技中もうまく動かすことができず、ショートプログラム終了後には全く動かなくなっていた三原舞依選手の足。退院後は、起き上がるにも一苦労で車椅子生活からのスタートを余儀なくされました。他のスケート選手の演技を見るのも辛かったという時期を乗り越えられたのは「絶対に諦めない。自分で自分を信じてみよう」という大好きなスケートへの熱い思いがあったからでした。
そしてリハビリなどの辛い闘病生活で心の支えになったものは、三原舞依選手が憧れ続けた浅田真央選手の存在。ジュニアのGPファイナルに出場し、シニアのGPファイナルに出場していた”浅田真央選手と同じ会場にいられた”という嬉しかった気持ちを常に思い出していたそうです。
滑れない間を利用し、自分自身の演技のビデオも見ました。スケートを始めた時より飛べるジャンプも増え、演技も良くなっていることで自分を褒めてあげたと言います。憧れの浅田真央選手への思いと強いメンタルで難病を受け止め、乗り越えたのです。
美しい強さを象徴する”シンデレラ”
退院後も復活と休養を繰り返しながら”若年性特発性関節炎”と闘ってきた三原舞依選手。2週間の入院を余儀なくされ、闘病生活から5ヶ月のブランクがありながらも厳しいリハビリ期間も乗り越え、シニアデビューを果たしました。復帰後初のフィギュアGPシリーズのアメリカ大会で3位に入り、表彰台にも上がりました。
病室で過ごしていた翌年、全日本選手権で3位、四大陸選手権で優勝、世界選手権でも5位の快挙を成し遂げた三原舞依選手。特に優勝した四大陸選手権では、浅田真央選手、安藤美姫選手、宮原知子選手に次ぐ日本人4人目となる”国際大会での合計200点超えの快挙”を達成しました。
「復帰後の舞台を明るく踊り切ってほしい」中野園子コーチと佐藤有香振付師の思いが込められたプログラム”シンデレラ”は、三原舞依選手を象徴する代表作となりました。ブランクを全く感じない軽やかでしなやかな表現力と闘病生活を乗り越えた美しい強さ。8000人程度の罹患患者のうち、成人期を過ぎても約6割が通院や治療を必要している難病を抱えてアスリート生活を送るのは、並大抵のメンタルではありません。
同じ病と闘う子供や成人した大人たちにも大きな勇気を与え、脱毛症など髪の毛を失った人たちへの医療用ウィッグを作る”ヘアドネーション”にも参加する優しさも兼ね揃えているのです。
闘病人生を表現した”戦場のメリークリスマス”
”若年性特発性関節炎”という難病からの復帰を果たし、スケートができる喜びを噛み締める三原舞依選手。シニアGPシリーズに上がって7シーズン目にして初進出、初優勝を飾りました。ノーミスで滑り切ったショートプログラム。上位6位までの選手全員がミスをするという不調続き。「今日のリンクには魔物でも取り付いたのか」と言われたフリーでも最も安定した演技を見せたことで唯一200点超えの快挙で見事に初優勝を果たしました。
フリーでのミスは、2回転になって手をついてしまった最後のループ。その際、足に違和感が現れていましたが「今日は、ちょっとコンディションを整えるのはハードだった。その中で最後まで滑り切れたな」と最後まで耐え抜いた自身の足を労いました。
そしてノーミスでの完璧な演技で使用されたプログラム曲は、”戦場のメリークリスマス”。これまでは、物語の主人公を演じてその曲に自分の姿を重ねてきました。しかし今回のプログラムでは、カナダのデヴィッド・ウィルソン振付師から「マイの人生を」と言われ、すごく嬉しかったそうです。
難病を患い、ブランクを経て復帰しても尚闘い続ける三原舞依選手の人生を表現できた特別な作品となりました。伊藤みどり選手、織田信成選手や羽生結弦選手など数多くの日本人スケーターと縁が深く、安藤美姫選手へも同じ楽曲である戦場のメリークリスマスで振り付けを手掛けたデヴィッド・ウィルソン振付師。他にも多くのスケーターが使用してきた楽曲ですが「そういった背景とは関係なく、純粋にこの音楽でマイの人生を振り返って表現してみよう」と考えたそうです。
曲が始まると天を仰ぐように腕を上げ、そこから両手を膝に当てます。この仕草は、苦しみ抜いた関節の痛みが込み上げたもの。後半の力強いビートが加わる音楽では、スピンの最中に片手を上げて何かを掴み取る仕草を見せます。そして最後のステップでは、再び滑ることができるようになった喜びを全身を使って表現。まさに三原舞依選手の生き様を表現したプログラムとなったのです。
今回は、三原舞依選手についてお話しました。相手と共にスタートし勝ち負けを決めるわけではなく、演技に対してのスコアで競うフィギュアスケートは、自分自身との戦いとも言える特殊なスポーツ。難病を乗り越えた強いメンタルと素晴らしい人間性を持つ三原舞依選手の今後のご活躍も願って応援し続けていきたいと思います。
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【このコラムの著者】