”最強のメンタル”で次なる舞台へ、池江璃花子選手
本当に”泳ぐことが好きなんだろうな”と誰もが感じてしまうステキな笑顔で泳ぐ池江璃花子選手。”白血病”を患っていると公表した時には、誰もが驚きました。水泳界の宝とも言える有名アスリートの近況報告に日本中が注目し心配しました。
復帰までの道のりは、強いメンタルを持つ彼女だからこそ乗り越えられた厳しいものだったはずです。今回は、水泳選手の池江璃花子選手についてお話します。
目次
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水中で生まれた”水泳界の申し子”
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”白血病を乗り越えた”最強のメンタル
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”自分を否定しない”考え方
水中で生まれた”水泳界の申し子”
東京都江戸川区出身の池江璃花子選手。兄姉の影響で水泳を始めたのは、3歳10ヶ月の時。5歳の時には、自由形・平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライの4泳法全てで50m泳げるようになっていました。”水中出産”という珍しい方法で生まれた池江璃花子選手。幼児教室を運営する母が”赤ちゃんにとって一番良い方法を”と考え、助産師を自宅に呼び体温に近いお湯の中で出産したのです。「一度泣いた後は、気持ちよさそうにお湯に浸かっていた」という池江璃花子選手。
生後2ヶ月頃から母が運営する幼児教室で超早期教育を受け、脳の発達に雲梯(うんてい)が良いと知ると生まれて間もない頃から雲梯を握らせたそうです。6ヶ月で母の親指を握ってぶら下がる癖がつき、1歳6ヶ月で鉄棒の逆上がりをこなし、幼い頃から脅威の運動神経を持っていました。小学校3年生には全国レベルの大会に出場するように成長。JOC春季ジュニアオリンピックの50mバタフライ(小学校4年生以下)決勝では、唯一の3年生ながら3位に輝きました。
小学校最後のJOC春季大会の50m自由型(11?12歳)で優勝し、自身初の全国制覇を達成。中学時代に身長が15cm伸び、給食の時間には男の子に混じってお代わりのジャンケンに参加するほど食欲旺盛だった池江璃花子選手。「みんなで笑いながら食べていた給食の時間が一番楽しかった」と話しています。
JOC大会や全国大会、W杯などの世界大会にも出場し入賞。高校時代には多くの大会で優勝の常連選手になり、15?18歳までの間に更新してきた日本記録は42個です。16歳で、リオオリンピックにも出場。代表選考会を兼ねた日本選手権では、100mバタフライで自身が持つ日本記録を0秒01更新し、オリンピック出場権を獲得。喜びのあまり両手で顔を覆い号泣しました。
この他にも400mフリーと800mフリーリレー・400mメドレーリレーの計4種目で掴んだオリンピックへの切符。その後、日本連盟からの高い評価により自由形3種目でもエントリーされ日本人として初めてオリンピックで7種目に出場することが決まりました。迎えたリオの地でのオリンピックは、決勝で日本新記録を樹立。
初のオリンピック100mバタフライで5位入賞を果たした池江璃花子選手は「メダルは取れなかったんですが、また自己ベストを更新できて嬉しい」と話しました。この時まだ16歳になったばかりの高校1年生。長い手が特徴の池江璃花子選手は、リーチが186cm、171cmの身長に対して108%に当たります。
リーチが長いことで世界的にも有名なマイケル・フェルプス選手が105%、メリッサ・フランクリン選手が104%で、それよりも長いことになります。長い手に加え、靴のサイズが26.5cmで水掻きするのにも有利なことは間違いないです。水中出産で生まれ、身体的にも恵まれた池江璃花子選手は”水泳界の申し子”なのでしょう。
”白血病を乗り越えた”最強のメンタル
診断を受けた時「(病名は聞いたことがあったが)どういう病気かもわからなかった。」と感じたという池江璃花子選手。抗がん剤で髪の毛が抜けることにショックを受けたと同時に”病気になってオリンピックに出なくてもといい”とホッとした気持ちもあったそうです。
幼いころからセンスある運動能力や恵まれた身体能力を持ってしても、オリンピックを目指すことは、とてつもない重圧なのでしょう。「休んでまた頑張ろう」とスタートさせた入院生活。しかし、話を聞いて予想していたよりも副作用の吐き気が強く出ました。1日に何度も吐き、食欲も全くない期間は「周りの人が私を見て辛い思いをしたことが自分でも辛かった」と闘病時の大変さを話した池江璃花子選手。
携帯電話も見れない時期もあったと言いますが、それでもファンや友人などたくさんの人がメッセージを送ってくれていたことや家族や関係者がお見舞いにきてくれたことにも支えられたそうです。「一人では乗り越えられない病気だった」と話しました。もしかしたら元には戻れない(以前のようには泳げない)かもしれないという気持ちがありました。
しかし、それでも水泳の世界に戻ってきたのは「病気の方達に”ここまで強くなれる”ということを知ってもらいたかった。」と話した池江璃花子選手。もちろん、このまま中途半端に水泳を終わらせたくないという気持ちもあったのでしょう。退院後プールに戻った心境は「最悪。こんなにきついんだ」だったそうです。
以前は「練習だったら自由型よりもバタフライは、楽で気持ちいい」と思っていたため、しばらく気持ちの上下があり苦しんだ池江璃花子選手。それでも”入院していた頃よりきつくない”と乗り越えられたと言います。「メンタルは(以前よりも)めちゃくちゃ強くなってると思う」と話す池江璃花子選手は、たくさんの痛みを知って最強のメンタルを手に入れたのです。
こういった強いメンタルを手に入れる人は逆境や困難に向き合い乗り越えたことがある人たちです。アメリカのNASAやGoogleの採用試験においてもこのような人を雇うことからも分かるように、人として成長していく上で病気を乗り越えた事はアスリートとしては凄い力に変わることが予想できます。
”自分を否定しない”考え方
白血病を乗り越えたことでさらに強くなった池江璃花子選手。世界選手権の代表選考会を兼ねたレースの100mバタフライで優勝しましたが、狙っていた世界選手権の派遣標準記録には、0秒10届きませんでした。
「戦わずして負けるか、戦って終わるかのどちらかを選ぶなら、泳いで次につながるレースにしたいなと。派遣記録が切れなくても、ここでしっかりと戦うことに意味があると思って臨んだ」と悔しい思いを話しつつも、清々しい笑顔を見せました。一戦一戦レースで泳げることを噛み締めているかのようです。この笑顔に辿り着くまでにたくさんの涙を流してきたのでしょう。
この選考会期間中も本命だった50mバタフライ、そして100m自由型でも世界選手権の内定を逃し自分の不甲斐なさに涙が出たそうです。あまりのショックさから最後のチャンスである100mバタフライまで棄権するという選択肢さえ頭をよぎったほどでしたが「ここで切り替えてこそこれから強くなる人だと思うから」覚悟を決めて臨んでいたのです。
”白血病”という病を患ってからの池江璃花子選手の水泳人生が、ガラリと変わったのは、いうまでもありません。かつての自分を取り戻すために努力した日々を振り返り「練習でも去年とは違うタイムで泳げていたし昔と変わらないくらいの泳力で泳いでいた。自分を否定しすぎないようにしないと」と話した池江璃花子選手。
”成長していないわけがない”と何度も言い聞かせる姿からは、病を乗り越えたことで以前より更に強くなった自身を感じます。「世界選手権じゃなくてもどんな大会でもいいから経験を積んで自分の競技力をあげていけばいい。」と泳げる機会をより多く求める貪欲さが滲み出ていました。
パリオリンピックを見つめる池江璃花子選手。水泳選手にとって”泳ぐ”という当たり前のことがそうでなくなった非常に辛い思いを経験した彼女だからこそ、さらなる進化を遂げることができたのでしょう。
今回は、池江璃花子選手についてお話しました。たくさんの困難を乗り越えてきたからこそ精一杯泳げる喜びを噛み締める懸命な姿には、多くの人が勇気や希望をもらえます。今後も池江璃花子選手のステキな笑顔を見れることを願っております。
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【このコラムの著者】