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大事なのは”状況判断”と”泥臭い頑張り”、森保一監督

”ハンス・オフトの申し子、ビハインド・ザ・ボールの申し子”と称され選手としても活躍した森保一監督。サンフレッチェ広島の監督を経てフィリップ・トルシエ氏以来、日本人としては初めて日本代表、五輪日本代表監督も兼任しました。今回は、サッカーの森保一監督についてお話します。

目次

  • ”良縁”で繋がった日本代表への道

  • 史上初の”生え抜き監督”としてリーグ連覇

  • 計画通りに進まなかったとき大事なのは”状況判断”

 

”良縁”で繋がった日本代表への道

静岡県生まれの森保一監督。父の造船関係の仕事により名古屋市、横須賀市、唐津市と転居が多い幼少期を過ごしました。小学校入学後すぐに転向することになりましたが、ようやく落ち着いて定住できることになった地は、長崎でした。土井首サッカー少年団に所属し、本格的にサッカーを始めたのは5年生の時。6年生の時には、全日本少年サッカー大会にGKとして出場しました。

 

サッカーの強豪校である長崎県立国見高等学校へ入ることを希望しましたが、父に反対され長崎日本大学高等学校へ進学。攻撃的MFとして評価され山梨国体選抜に選ばれますが、国見高等学校と島原商業高等学校が全盛期だった長崎では、インターハイや選手権などの全国大会には出場できませんでした。

 

しかし転機となった縁は、日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(後のサンフレッチェ広島)の今西和男監督と高校の監督が知り合いであった事でした。174センチ68キロと並の体格ながら中盤で相手ボールを奪い攻撃の芽を積む守備能力が評価され、高校卒業後マツダへ入団することが決まりました。

 

学生時代に目立った成績を残せていなかったため、マツダ本社での高卒採用枠5人に入ることはできず、まず子会社であるマツダ運輸(現マツダロジスティクス)のマツダSC東洋でプレー。

 

ここでも転機が訪れ、この年から就任したチームのハンス・オフト氏の目に止まり、マツダでプレーし始めます。チームがリーグ2部に降格したことでハンス・オフト氏が脱退することになりましたが、その後ビル・フォルケスコーチに育てられ3年目で試合に出場。先制点、さらに2点目を挙げ鮮烈なデビュー戦を飾りました。

 

2年後にはマツダのリーグ1部昇格に貢献。その翌年には、日本代表監督に就任したハンス・オフト氏により日本代表に初招集されます。”無名選手の大抜擢”と言われながらもオフトJAPANの初戦アルゼンチン戦で先発出場を果たし、当時監督を務めたアルフィオ・バシーレ氏から「日本には良いボランチがいる」と高評価を受けました。

 

 

この試合で”森保”という名前と”ボランチ”という言葉が世間で注目されることになりました。W杯アメリカ大会アジア予選では、ドーハの悲劇を経験したメンバーの一人でもあります。

 

同年のJリーグ開幕でマツダからサンフレッチェ広島へ改名した初期メンバーとして活躍し、翌年のサントリーシリーズでは、チームのステージ優勝に貢献。今西和男氏に出会い、マツダ(後のサンフレッチェ広島)へ入団後、ハンス・オフト氏との出会いで日本代表に招集された森保一監督は、良縁で得たチャンスを見事に掴み、秘めたポテンシャルで日本代表まで上り詰めたのです。

 

史上初の”生え抜き監督”としてリーグ連覇

サンフレッチェ広島から京都パープルサンガに移籍した森保一監督。完全移籍の予定が、サンフレッチェ広島サポーターの反対署名によりレンタル移籍に変わったそうです。サポーターに愛される人柄、選手だったことがわかります。広島へ復帰するとJリーグ通算200試合出場を達成。ベガルタ仙台に移籍後も主力として活躍しました。

 

現役引退後は、サンフレッチェ広島でコーチに就任。公認コーチライセンスも取得し、U-19日本代表コーチも兼任しました。AFCユース選手権2006では代表コーチとして準優勝を経験し、翌年のU-20W杯にもコーチとして参加しました。

 

その後アルヴィレックス新潟のコーチを経て、サンフレッチェ広島の監督に就任しクラブ生え抜き史上初の監督として奮闘した森保一監督。日本人元Jリーガーの監督としては初、日本人新人1年目監督としては松木安太郎氏以来2人目となるJ1年間優勝を達成しました。

 

さらに翌年にも松木安太郎氏、岡田武史氏、オズワルド・オリヴェイラ氏以来4人目となるJ1連覇を達成すると3連覇は逃したものの4年間で3度のリーグ優勝を果たしました。東京オリンピックを目指す五輪代表監督に就任した森保一監督。W杯ロシア大会開幕2ヶ月前には、解任されたヴァヒド・ハリルホジッチ氏の後任となった西野朗氏のもとコーチとしても兼任し、ベスト16に貢献。

 

日本代表監督と日本五輪代表監督の兼任は、フィリップ・トルシエ氏に次いで2人目、日本代表監督としては初めてのことでした。選手時代やコーチ時代の経験を経てリーグ連覇を達成したサッカーを熟知した監督なのです。

 

計画通りに進まなかったとき大事なのは”状況判断”

両親の影響から”人の中に自分がいる”と考え、多くの人に感謝してきた森保一監督。人生の最大の転機となった”今西和男氏との出会い”も恩師である高校時代の監督が手紙を書いてくれたからでした。そして今西和男氏がハンス・オフト氏と共に長崎まで練習を見に来たことが、日本代表への招集に繋がりました。

 

後に人望も評価され、日本代表監督にもなりました。日々の生活では思い通りに行かないことが多いため、ミーティングで”絶対”という言葉は使わないと話す森保一監督。現在は過去のデータなどである程度の計画を立てられる時代ですが、それでも相手のコンディションや自身の調子もあり勝負してみないと実際わからないことが多いものです。いざピッチに立った時にしか感じることができない空気感を含めて”状況判断”と定義するそうです。

 

戦術的なベースがあるなかで相手がいるサッカーは、必ずしも思い描いた通りには行きません。計画通りには進まなかった時に諦めてしまうのではなく、何ができるのかが大事なのです。監督やコーチが伝えることで戦況を変えることもできますが、サッカーの試合は始まれば刻々と進んでいきます。そんな中で選手個々が状況を見て、チームのために判断する対応力を身につけていってほしいと考えるそうです。

 

南米の選手は、”いざ劣勢に陥った時にどうするのか”または”相手を上回れる時どのように畳み掛けるのか”そして”自分達の良さを出しながらどのように相手を疲弊させていくのか”上手な戦い方をします。

 

日本でマリーシアという言葉は”ずる賢い”と良く伝えられますが、これを単に”賢い”と考えたいという森保一監督。相手との駆け引きや状況に応じた個々の判断力、南米の選手が長けているものを日本の選手にも取り入れてもらいたいのです。また泥臭いと言われるプレーを多くのサポーターが称賛します。

 

タッチラインギリギリで諦めずに追いかけ繋ぐことができた時、守備で足が届くか届かないかの状況で足を伸ばしてボールに届いた時、ゴールで頑張って爪先を出したら得点になった時など日本的に言えば”頑張り”という泥臭いプレーの一つ一つも状況判断によるものです。相手をリスペクトし、自信を持ち、同じ目線で戦うことができるのか、同時に自分達がこれだけやれたと思うことも大切なのです。そして自分達に足りなかったものは何なのかを考え、身につけることができれば、さらに日本代表は強くなれるのです。

 

今回は、日本代表監督の森保一監督についてお話しました。選手、コーチ時代の経験やピッチ内で感じた空気感での状況判断を選手に委ねる考え方など人柄の良さがわかりました。今後も監督、指導者としてのご活躍を楽しみにしております。

 

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【このコラムの著者】

プロスポーツメンタルコーチ/一般社団法人日本スポーツメンタルコーチ協会
代表理事 鈴木颯人

プロ野球選手、オリンピック選手などのトップアスリートだけでなく、アマチュア競技のアスリートのメンタル面もサポート。全日本優勝、世界大会優勝など圧倒的な結果を生み出すメンタルコーチングを提供中。>> 今も増え続ける実績はこちら

【プロフィール】フィリピン人の母と日本人の父との間に生まれました。生まれた国はイギリス。当時から国際色豊かな環境で育って来ました。1歳になる頃には、日本に移住しました・・・。>>続きはこちらから

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