もう一度走ることを決めた熱い思い、大迫傑選手
東京オリンピックの男子マラソンでレースの10日前に突然、現役引退を発表した大迫傑選手は、見事に6位入賞を果たしました。実業団に所属することなく、日本人としては珍しくプロとして活動した大迫傑選手。
アメリカやケニアにて練習をつんだストイックな現役生活でした。今回は過酷な環境を求め、常に上のレベルを目指し続けた大迫傑選手にスポットを当ててお話します。
目次
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”エリート”と称された大迫傑選手
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”誰よりも負けた”大迫傑選手のメンタル
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”シュガーエリート”に込めた次世代への思い
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現役復帰を宣言!大迫傑選手の次なる狙いは?
”エリート”と称された大迫傑選手
中学3年生の時に、3,000mの競技で全国3位になった大迫傑選手は、高校に進学すると史上4人目となる13分台を記録します。全国駅伝でもアンカーとして1位でタスキを受け取ると区間賞となる記録で優勝し、外国人を含まないチームとしては過去最高記録で佐久長聖高校を初優勝に導きました。早稲田大学に進んだ大迫傑選手は、世界ジュニア選手権10,000mで8位に入賞し、全日本駅伝、箱根駅伝、ユニバーシアードなど各大会で優勝を経験しました。エリートと呼ばれるに相応しい結果の数々でした。
大学卒業後、日清食品グループの実業団に入ります。また、ナイキ・オレゴン・プロジェクトと二重に籍を置いていた大迫傑選手は、アジア競技大会10,000mで銀メダルを獲得。元旦のニューイヤー駅伝では1区として区間賞を獲得し、実業団駅伝デビューを果たしました。しかし翌年、日清食品グループとの契約を解消し、実業団ではなくナイキ・オレゴン・プロジェクトに籍を置き、プロランナーとして走り始めたのです。
ほとんどのマラソン選手が安定などを理由に実業団に所属します。しかし大迫傑選手は、日本陸上界ではあまり前例のないプロ転向に挑戦したのです。”エリート”と称されてきた大迫傑選手の大きな挑戦は、陸上界のみではなく世間を大きく驚かせました。活動拠点をアメリカに移した大迫傑選手は、現状よりも更に上のレベルを目指したのです。
”誰よりも負けた”大迫傑選手のメンタル
”エリート”と称されるも「下積みの方が長かった」と話す大迫傑選手。高校時代の恩師である両角速監督も「私の知る限り、誰よりも負けた選手」と話しました。「日本の長距離界において突出した才能を持つ選手は、いないと思っている」と話した大迫傑選手は、才能などではなく、”速くなりたい”そして”負けたくない”という気持ちで、ここまで上り詰めたのです。
陸上をはじめた中学の陸上クラブ、佐久長聖高校、早稲田大学には、自分よりも速い選手が常に居た環境でした。その中で這い上がってきた大迫傑選手は”挑戦する”ことを純粋に楽しんできたのです。プロへの転向も、アメリカで自分よりも速い選手に挑戦したい気持ちを重視したものでした。
そんな常に上のレベルを目指してきた大迫傑選手は、時には監督や先輩にも自分の意思をハッキリ伝えるという強さも持っていました。故障をして実家に帰ろうとする選手に「故障をしていても出来る練習はたくさんあるんだから」と言ったことがあるそうです。入学した際には、同じレベルであっても”自分がダメな時に頑張れるかどうか”で差ができてしまいます。
”速くなるための努力”を追求した結果、その手段となったのがナイキへの専属所属、アメリカ拠点だったのです。ハッキリと意思を伝える大迫傑選手のメリットである強さは、同時に集団の中で浮いてしまうデメリットもありました。
ナイキにプロとして所属し、アメリカに行った時にも「通用するはずがない」とマイナスな意見もあった日本陸上界でしたが、実力をつけていく大迫傑選手に「どんな練習をしたのか」とその秘密を知りたがったのです。「ただひたすら走って、ハードな練習を積むだけ」と話した大迫傑選手。さらっと話した大迫選手のハードワークは、日本の誰もが驚いたというほどのものでした。
「敵を作らず過ごすことは楽、喧嘩や意見をぶつけ合うとストレス。でもそれを避けて大きな結果を出せるほど甘い世界ではない。そう言うからには周りが認めてくれるように自分が行動しなくてはならない。」この思いが結果的に、ハードワークを乗り越え、大迫傑選手を成長させてくれたのでしょう。
スポーツメンタルコーチにおいても、この考え方は諸刃の剣です。ライバルや敵を作り上げることで頑張れる人もいれば、ライバルや敵の存在が目障りになってしまいストレスを感じる人もいます。どちらが良いか悪いかではなく、自分にあった方法を見つけることが大事になります。
”シュガーエリート”に込めた次世代への思い
2021年東京オリンピックでは「100点満点の頑張りができた」と話、6位に入賞した大迫傑選手。しかし、このレースの10日前に「次があるという言い訳を強制的になくしたい」と現役引退を発表していたことには驚かされました。
「過去に素晴らしい選手はたくさんいましたが、世の中に認知されていないのは、出した結果をどうやって活かしていくのかを考えてこなかったからだ」と話す大迫傑選手。
「自分達が道を切り拓けば、次世代の選手もセカンドキャリアに不安を持たずに活躍できるかもしれない。」「しがらみのないアメリカにいる自分だからこそ、アメリカにいたからこそ経験できたことを次世代に伝えていきたい」そんな思いから、大迫傑選手は会社を立ち上げ、次世代のために設立したのが育成プログラム「シュガーエリート」でした!
甘えを無くす大迫選手らしい考え方だと思います。逆に、甘えを無くすことで人は成長できると信じている気持ちが垣間見れます。
現役復帰を宣言!大迫傑選手の次なる狙いは?
一度は引退を決め、次世代へ選手をサポートする会社を設立した大迫傑選手でしたが、引退発表を決めた東京オリンピックから半年後に競技者として復帰することを発表しました。
設立した「シュガーエリート」の活動をしていく中で、軽い気持ちでのんびりとランニングをはじめたそうです。暇ができたので少しワークアウトを付け足して「そんな生活を初めてした」と話した大迫傑選手。ストイックであった大迫傑選手にとっては、本当に純粋に走ることを趣味のように捉えた走りだったのです。
しかし、あるレースで心を打たれた大迫傑選手。ナイキ・オレゴン・プロジェクト時代のチームメイトであるゲーレン・ラップ選手が出場したシカゴマラソンです。ライバルであり、大迫傑選手にとってゲーレン・ラップ選手は憧れの存在。2?3年ほど前、足の故障に悩んできた彼を知っていました。そんな彼が東京オリンピック、その2ヶ月後のシカゴマラソンでも結果を出した姿に胸が熱くなったのです。
「彼が目標であり、憧れだった。だから込み上げるものがあってまた”競技の刺激”が欲しくなった」と話した大迫傑選手。かつてのライバルの活躍により、もう一度”ワクワクした場所に立つことを決めたのです。
「パリには間に合わないかもしれない、ロスも見据えている」と話した大迫傑選手。2028年には、36歳になることについても「年をとる=衰えると言うわけではない。やってみないとわからない」「今の時代、一度失敗したら取り返しがつかないと言う風潮がある。アスリートとして挑戦することの楽しさ、それをモチベーションに繋げると言うことを体現したい」とも話した大迫傑選手。今後の人生に対してかつてないほど楽しみが見つかったのだと思います。
彼のようなキャリアは異色だと思います。しかし、前例主義の日本において彼のように前例がない中で前例を作ってくれる存在は陸上界だけでなく、多くの競技に影響を与えてくれました。競技とは、自分だけのものではないのです。高めあう仲間やそれを支えてくれる協会の皆さん、メディア関係者などがいるからこそなりたいつのです。そういった、大迫くんにしか出来ないことをこれからも期待し続けたいです。