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指導者としても求め続けたい”楽しむ気持ち”、高津臣吾監督

ヤクルトスワローズの第22代監督を務める高津臣吾監督。日本プロ野球、メジャーリーグ、韓国プロ野球、台湾プロ野球の4つの野球リーグを経験した初の日本人選手です。現役時代は、サイドスローから放たれる鋭いシンカーを武器に抑え投手として活躍。選手、監督として日本一を達成し、いずれの立場でも胴上げを経験した人物です。指導者の立場として心がけている事は、”雰囲気作り”だと言います。今回は、高津臣吾監督の考えるチーム作りについてお話します。

目次

  • 日本一の胴上げ投手、キッカケは”恩師からのムチャブリ”

  • メンタルトレーニングとしても重要な”楽しむ気持ち”

  • チームの流行語、”絶対大丈夫”

日本一胴上げ投手、キッカケは”恩師からのムチャブリ”

広島県広島市出身の高津臣吾監督。近所に住んでいたこともあり、広島球場に通うことが日課の少年時代を過ごしました。広島東洋カープに憧れ、特にミスター赤ヘルと称された山本浩二氏の大ファンだったといいます。叔母が経営するフグ料理店に江夏豊氏が来店した際、何とか頼み込んで会わせてもらったこともありました。

 

そんな高津臣吾監督が野球を始めたのは小学校3年生の時、”段原レッドイーグルス”という少年野球チームに入ったのがきっかけでした。中学の野球部OBには張本勲氏もいますが、野球があまり盛んではなかったため目立った成績は残せませんでした。自宅が近所だったことを理由に広島工業高等学校に進学。”何か特徴が欲しい”と感じたため、投球フォームをアンダースローに変えました。

 

控え投手兼一塁手として春夏連続で甲子園出場を経験。本大会では代打でしたが、地区大会では準決勝でも完投勝利するなどチームに貢献しました。卒業後は亜細亜大学に進学すると東都大学野球リーグで春秋連続優勝を飾りました。

 

後に近鉄バファローズに入団した小池秀郎氏と2枚看板で大活躍した高津臣吾監督。大学2年生の時、スピードをつける目的で投球フォームをアンダースローからサイドスローに変更し、この頃からシンカーを投げ始めたそうです。大学卒業後は、社会人野球の三菱重工広島で内定をもらっていましたが、やはりプロ野球への憧れを持っていました。

 

少年時代から大ファンの広島東洋カープは、当時”横投げはいらない”という方針でオファーはなかったものの小池秀郎氏の視察に来ていたヤクルトスワローズのスカウトから”横投げの面白い投手がいる”と興味を持ってもらえました。これがきっかけとなり1990年度のドラフト会議でヤクルトスワローズから3位で指名され、入団が決定。

 

しかし、当初から制球を評価されながら”決め球になるものがない”と言われていました。転機となったのは、監督を務めていた野村克也氏から言われた「150キロの腕の振りで100キロの遅いシンカーを投げろ」と命じられたムチャブリでした。”そんなことできないよ”と思いながらも思考錯誤を繰り返し、100キロ台のシンカーの習得に成功。

 

この苦労が身を結び、相手打者がタイミングを取ることができない”決め球”が完成したのです。前年まで”決め玉になるものがない”と評価されながら”決め球”ができたことで翌年には胴上げ投手にまで上り詰めたのです。

 

メンタルトレーニングとしても重要な”楽しむ気持ち”

自身を”野球を楽しみたいタイプと話す高津臣吾監督。上下関係が厳しい時代に選手生活を送ったため、正直”野球を楽しめる雰囲気”には程遠かったそうです。

 

そして自分が監督になった時に”こうしたい”と思っていたことがありました。”まずは自分が楽しむこと”もちろん選手にも野球を楽しんでほしいということでした。その理由について「現場の責任者である監督がブスッとしていたら選手たちは真剣勝負を楽しめないでしょう?」と話した高津臣吾監督。

 

人間なので文句を言ってしまうこともありますが、監督が楽しむ気持ちを持っていなかったら選手たちだって楽しめないと考えるのです。もちろん”楽しむ”というのは単に笑いながらプレーするということではないと言います。高津臣吾監督が考える”野球を楽しむ”というのは、喜ぶときは喜び、笑うときは笑い、怒るときは怒る、喜怒哀楽を素直に出そうという意味だそうです。

 

しかし、相手チームも必死に勝とうとする真剣勝負。特に優勝争いが掛かる大事な一戦や日本シリーズのような大舞台では、厳しい場面に遭遇すると”楽しむ”ということさえ忘れてしまいそうになります。しかし「この姿勢だけは、どんな舞台であっても崩そうとは思いませんでした」と話した高津臣吾監督。

 

若手選手が感情を爆発させるのを容認し、それを感じたベテラン青木宣親選手なども笑顔で若手選手の感情表現を受け止めたのです。「元々スワローズには面白いことをいう遺伝子というものがあった」という高津臣吾監督本人も現役時代には、アフロヘアのかつらをかぶり、クリスタルキングの”大都会”を熱唱するという持ちネタで珍プレー大賞を受賞したこともあります。

 

楽しむということで気持ちも強くなれます。メンタルトレーニングにおいても”楽しむ”という事は、何よりポジティブになれる”魔法の言葉”なのです。

 

チームの流行語、”絶対大丈夫”

「絶対大丈夫」という言葉を選手やスタッフに話した高津臣吾監督。優勝を狙うには、この3連戦が勝負所という試合前のミーティングでした。「絶対大丈夫。僕たちはどんなことがあっても簡単に崩れない」と指導者から言葉をもらった選手たちは、見事に力を発揮し勝負の3連戦を2勝1敗で勝ち越すことに成功。

 

スワローズ内に浸透したこの言葉から村上宗隆選手の「絶対大丈夫と思って打席に立ちました」や中村悠平捕手の「絶対大丈夫と思いながら投手をリードしました」に続き、この”絶対大丈夫”の言葉がプリントされたタオルまで商品化され、ファンからも愛される流行語になったのです。

 

この言葉が生まれた時の状況を「その前の週は2敗1分、1勝2敗と負け越し続きで思うように試合運びできず、ムードが悪くなりかねなかった」と話した高津臣吾監督。そこで選手たちのやる気を引き出せるような前向きな言葉を考えたそうです。”さあ行こうか”や”頑張ってこい”などのいつも使っている言葉ではなく「もっと気持ちに響く言葉がほしくて。そしたら”絶対大丈夫”に行き着いたんです」と話しました。

 

本来”絶対大丈夫”というのは、自分自身の内面に語りかける言葉。しかし発想を変え、選手たちに外部からこの言葉をかけたら響くのではないかと考えたのです。ありふれていながら人から言われた事はない言葉。”何かあったら監督の自分が出ていくし、責任も取る。だからみんなは自信を持ってプレーして気持ちよくグランドに立ってくれ”という高津臣吾監督の思いが”絶対大丈夫”のなかに集約されていたのです。

 

高津臣吾監督も現役時代に恩師である野村克也氏から「最善の準備はしたけど最後は相手もある事だし、勝負は時の運だから」と言われたそうです。「全力を尽くしてグランドで戦えばそれで十分なんだと。僕が現役時代に味わったような気持ちになって欲しかった」と話しました。

 

その思いに込められたのが”絶対大丈夫”という言葉。目に見える数字や勝敗などの実績向上やチームを強くすることに加え、チームの流れや勢いそしてプレーする喜びまで指導者として見届けたいというのが高津臣吾監督なのです。

 

今回は、高津臣吾監督についてお話しました。日本一のチームを作り上げた指導者としての熱い想いは、恩師である野村克也氏から受け継いだもの。野球ファンのみならず他のスポーツの指導者、または会社や組織で指導する立場にある人にも知ってもらいたい思いです。今後もさまざまな指導者の情報を発信し続けたいと思います。

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【このコラムの著者】

プロスポーツメンタルコーチ/一般社団法人日本スポーツメンタルコーチ協会
代表理事 鈴木颯人

プロ野球選手、オリンピック選手などのトップアスリートだけでなく、アマチュア競技のアスリートのメンタル面もサポート。全日本優勝、世界大会優勝など圧倒的な結果を生み出すメンタルコーチングを提供中。>> 今も増え続ける実績はこちら

【プロフィール】フィリピン人の母と日本人の父との間に生まれました。生まれた国はイギリス。当時から国際色豊かな環境で育って来ました。1歳になる頃には、日本に移住しました・・・。>>続きはこちらから

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